昭和42年12月21日 夜の御理解
神様が私共人間氏子の真実助かっていくという事を喜んで下さる、それこそその、神様としても、その、氏子を助けたいというような働きが、非常に強く現れるところと現れないところとがあるようにですね、そういう意味合いであの教会は御ひれいがたつとか、あちらは御ひれいがもう落ちたとかいうような事を申しますが、御ひれいのたっておる時こそそういう神様の氏子救済とでも申しましょうかね、氏子の真実助かっていく事の起こるきっかけを作って下さる、そういう働きをひしひし感ずるんですね。
今日なんかも私午前中奉仕させて頂いておって、そういう思いをいよいよ強くするんですけれども、ちょうど何時ぐらいだったでしょうかね、九時から、八時から九時頃の間だったでしょうか、お参りをしてきておる方達のその願いというのは、一人にお話をしておれば向こうでこうお話を頂いておる人達が、実際今日私もその事でお願いに来ておったといったような感じなんですね。その人達が集まるんですね。今日はもう初めてのお導きを頂いてお参りをしてきておる人達がいくらもあったんですけれども、これは久留米の大きな有名商店の奥さんですが、北野の秋山さんのお導きで参って参りました。西条の久保山さんのお導きで始めて参ってきたんです。そういう婦人もあったんですが、その、まあ同じようなその事情の中にお参りしてきておるんですね。子供の、久留米からお参りしてきておる人なんかは、高校2年生になられるんですよ。もう学校の先生はもう実に学校では模範生として褒めて下さるんですね、父兄会なんかに行くと。ところがその家に帰るともう二人見るように人間が変わってしまうんですね。まるっきり、もう踏んだり蹴ったりするというから、私は兄弟げんかの事と思うたら、親を踏んだり蹴ったりするそうです。高校2年生になるともう強い、親よりも強いわけですよね。もう本当にその豹変するというかその変わり方が余りにもね、それでどういうこちゃろうか、と言いよるところにその秋山さんのお導きを頂いてから今日お参りをしてきておるんです。
それがです、話を聞きますと、自動車に乗り損ねたとか物を忘れたとかといったような中にですね、ちょうどその時間にここに参ってこんならんようになってるんですね。そこへちょうど、合楽会の会長の中村さんあたり、ちょうどここに6、7人ぐらい揃うてました。そこへちょうど福岡の中村さんところの娘が福岡に嫁に行っております。(ゆうこ?)さんがお礼に参拝してきておりました。そのちょっと前に、秋永先生とこの一番下の弟の嘉朗さんが、大祭翌日から朝参りをしてきております。その( ? )の中にです、最近私がお店の方におって感じるんですけれども、皆さんがどうもこの頃、秋永先生の奥さんがですね、フミさんです、姉さんが子供達の事で非常にこう悩んでおられるように思います。だからどうぞ送り合わせ頂きますようにとこういうことである。特に、その、一番下の鏡子さんというのは、そのここで、もう子供の時には良く参ってきたんですけれどもですね、自分の友達があちら、久原かね、久原の教会に行っておる。非常にこう、学校の先生が非常に多い事で有名な教会がございます。そこの少年少女会が非常にその、まあ全国でも有名な少年少女会があるわけです。それで友達に誘われてそちらにお参りするようになったんですね。ですからその、同じ金光様だけれどもその、習ってくることが違うというんですよ。もうことごとく対立するわけですね。まあそんな事をお届けしておりましたら私が頂きます事は、あちらの高校の今二年生でしょうか、一年生でしょうか、生まれて初めてに御礼にでてきた時にお名前を頂きたいというて連れてきた時に、御神鏡を頂くんですね、八つ波の鏡です。ですから私は鏡の子と書いて鏡子と頂きました。その時からこう思うんですけれどもね、結局あの、子供は親の鏡だとこう言うておるです。そういう今日はご理解に、をずーっとこう説いておるところへ、それを頂けばおかげ頂くという人が集まってくるんですね。
昨日も中村さんところのその恵美子さんが、中村さんのためには孫になりますよね。小学校一年生になります息子が、急右の乳の下が痛み出してですね、もう引いて泣くそうです。だから休ませたらよかろうというんで休ませたらよけい痛いというて泣くそうですから、それでその、お婆ちゃんに言うてお届けに行ってくれ、また自分が電話をかけるというようにしておかげをお願いしてきたんです。けれどもね、娘時代にしっかりやはり信心の稽古ができておりますから、教えをちょっと頂くとすぐ分かるんですよね。子供の病気は親の病気と頂いておるからね、もうそれはのりゆきさんが病気じゃなかよ、いうならあんたが病気よというような御理解でした。もうそのお母さん、思い当たる事があるんですよね。それで夕べおかげ頂いてからもう休ませて頂いて、今朝はけろっとしておかげで学校いっておる、お母さん今日は合楽に御礼に早う出てくれというてその子の方が言うたから出てきておるのがちょうどその時間なんです。ですから私が、その、久留米から参ってきた方、その( ? )から参っておる方、それからもう一人後ろに参ってきておりました方、これは他の事でしたけれども実際はその子供のことでの難儀、悩み、実際お伺いに参ってきておるんですよね、ある事を。けれども、こげな事までは初めて参ってきてお願いできんじゃろうというてその、子供の問題を持った難儀を抱えておる人が後ろに参ってきておるんですよ。その久留米の方がお話を頂いておるそのお話を聞かせてもろうてですね、もう( ? )から、先生、一日も親として思い当たる事がございます。これは私だけじゃありません。こりゃ主人もどうでもいっぺん連れて参って夫婦でおかげを頂かせてもろうて、子供の事をおかげ頂かにゃいけませんというて、それがその後ろで聞いておるんですよ。それはあの、連れてからその事をいっぺんお届けしとってからまた出て見えてから聞きますと、本当にとてもとても( ? )がおかげに見えとるような事じゃなかですね。その方が大事な問題ですよというような事なんです。それがその、おかしいわけですね、人に話すとが。それがその、まだ三ヶ月ばっかりな夫婦の、孫さんにあたる方なんです。ですから娘さんにあたるわけなんですね。足がこんな具合に歪んでしまう。医者に行ったら治らんって言われた。もうこげんとでっちゃその、子供の(勉強じゃなかわけじゃなか?)とこういうわけなんですね。だからその、おかしいわけなんですね、そういういわば、奇形児が生まれておるという事言う事が。けれどもその話を聞きよる内にですね、まるっきりそこに参ってきた恵美子さんというのが、今話したあの人ですよと、昨日お乳の下がもうそれこそ泣き出すように痛んで、寝てもたってもいてもおられんというようにその、苦しんだらしいんですけれども、御理解を頂いてからおかげ頂いて今日ここにお礼に出てきておる。ちょうどまるっきりサクラ使うとるごたるですねというてから私も話した事ですけれども、そういう一つの問題という、そういう難儀というものをですね、この、こうおかげ下さるというか働きというものがね、その時間にそういう風にみんな集めておられるという事。最初は中村さんも参ってきておられましたんですよ。中村さんも実は他の事でじゃったけれども、後ろで聞いておってからですね、たとえ家の中であろうがですね、子供と親と呼ばれ子と呼ばれるからにはやはり親子だと、先生、今日の御理解を頂いて私はそげん(頂かせて?)、大変、もう参って来る人はみんなその御理解でおかげ頂くというような雰囲気の中に、お取次ぎをさせて頂いたんですけれどね、そういう事の中から分からせてもらうわけです、思わせてもらう事はです、いかに神様がですね、あの、こう、助けようとか、救うというその働きかけというものがこのお広前にあっておるかという事を感じますね。同時にいわゆる私どもが、秋永先生とかじゃないですけれども、この子供はだんだん大きくなると親が心配するような事になるぞと。けどそん時には、それを、子供を御神鏡と思うて、自分の姿を映して、子供じゃない、子供の姿そのものが親の姿だ。鏡子さんを見る親の目というものがそのまま自分の姿であるというように、鏡子さんを鏡として見たら親がこれは改まる事が本当じゃなかろうかねって言うてもう、嘉朗さんに話したこと。今日はあちらの21日のお月次祭だった。だからその事をどういう風にして皆に言おうかというて、嘉朗さんも帰りましたが、そこんところに基づかなければいけません。同時に神様のそのおかげ下さろうとする働きかけをです、こげんしてまでおかげを下さろうとしておる働きをですね、親の、神様の心を分からせてもろうて、本気で神様の心にです、沿わせて頂こうという気にならなければいけん。同時に神様のその救いたい、助けたいという働きかけというものは、今日の場合なんかははっきりそうして幾人もの人達を一ところへまとめておいて一刀両断というかね、まとめておいてこう、一つの事を助けようとしておられる。しかも、横の人を見ても後ろの人を見てもです、その願いの筋は違うけれども、みんな子供に関しての事である。ですから、この人がおかげを頂いておる、御理解を頂いておるその御理解によって、みんながその、おかげを受けて、いうならあっちこっちでこうやって御祈念をいくらもしよったけど、元気になってここに集まってきてからですね、その、御理解を拝聴してから、本当に今日の御理解は私が頂かなきゃならんとこだったというてから、助かっていかれるきっかけをみんなが作って下さる。ですから神様のそういう働きかけと、私共がそういう風に分からせて頂く、その、信心の神様に向かう態度というものが一致してこなければならん。そういう事の中から今日私は、なるほど子供の病気は親の病気だなと、子供そのもの親の鏡だなと、しかも私だけじゃいかん、夫婦のものが子供の事について祈らせてもらう、願わせてもらうという素直な態度こそ、子供が助かっていくだけじゃなく自分が助かっていくんだと、そういう働きかけというものをです、今日私は強く感じたんですよ。どうぞ